matsumushisou’s blog

映画やドラマと日々の生活

頼りになる息子

父が、昔のことを懐かしんで話してくれた。
 
弟の家族と旅行に行ったこと。
 
九州や、北海道にも行ったと言う。
 
北海道には、7泊8日で、北方領土も観て来た。知床半島を船で一周したとか。
 
 
いいなあ。うちは、近間しか行っていない。
 
夫が休みが取れた時に突然行くから母たちも誘えない。
 
母は私が行くと、「娘っていいわぁ」って言うけど、元気な時には、一度も旅行に行っていない。
 
母が発病してから、数回行っているだけだ。
 
何故か、お盆や正月も実家に行かせてもらえなかったし、母も来ないでいいと言うばかりで
 
かなり疎遠だった。ただ、母たちのとっての孫たちは、その代りと言ってはなんだが、
 
定期的に遊びに行ってくれていたし、踊りの会やら、旅行、プールも行っていた。
 
 
母が子供に水泳を教えるのを手伝っていたために、子供たちに水泳も教えてくれた。
 
が、私は中々寄せてもらえなかったし、行ってもお客様扱いで、台所にも入れて貰えなかった。
 
結婚以来、母とも父ともじっくり話をすることが出来ていなかった。
 
 
そして父が 心不全 で倒れた時に
 
やっと電話がかかって来た。
 
それも弟に掛けて、妹に掛けて、それでも捕まらないってことで私に掛けて来た。
 
何故か出先で、運ばれた病院に近いところに居た。
 
 
今までだって、父は、ホームから転落したり、自転車にぶつけられたり、色々な事で
 
救急車のお世話になっていたらしい。弟には、連絡が行っていたみたい。
 
私には全部、事後報告だ。
 
もうお嫁にやった子だからと連絡がなかった。
 
 
で、初めて心不全で父が倒れた時、連絡が来て
 
私の介護生活は、始まった。とは言っても、今までの病歴も入院歴も知らない。初めての病院だ。
 
弟はよく知っていて、お嫁さんもすぐに駆け付けた。
 
ERに運ばれて、担当医師から、治っても元通りにならないかもしれない
 
歩けなくなったり、頭がボケてしまうかもしれませんと宣言された。
 
ERで面会した父は、沢山の管に繋がれて、医師や機械に見守られている中にいた
 
げっそりとして、枯れ木のようだった。それでも、こっちに微笑みかけて、あろうことか
 
かすれた声で、「新聞が読みたい」と言ったのだ。そのくせ「延命処置はしなくていいから」と
 
まったく現実的な父だ。
 
ERに三日いて、一般の病棟に移され、毎日、毎日、新聞を届けるうちに回復していった。
 
それが、2007年1月のことだった。
 
その時、父はまだ仕事を持っていたから、弟と母は、それの後始末で、忙しく、書類を病院に届けては
 
また相手先に持って行くなんて、大変なことをやっていた。
 
「一日に何回も電話するな」なんて父は怒られていた。
 
これは、転院先でも行われていたように思う。
 
私は、毎日のように病院に行っていたが、夫公認で父や母に会いにいけるので、なんだか張り切っていた。
 
母はもう私たち姉弟に頼り切っていて、毎日、毎日精一杯生きているようだった。
 
そして週三回行っていたプールをやめてしまった。
 
父は、その後心臓専門の病院に転院、カテーテルを入れて修復、退院後月に一度の通院につきそうのが
 
仕事になった。
 
こうやって書いてみると、弟がいてくれて母は幸せだったのでは、ないだろうか。
 
弟が母に会いに行った時には、「息子がいてホントに良かった」とか、
 
ねぎらいの言葉を言っているのだろうか。
 
私には、ちっとも来ないとか文句ばかり言っているが。