matsumushisou’s blog

映画やドラマと日々の生活

両親を観て夫婦のあり方を考える

先月
父の介護認定がありました。
父は年相応の記憶障害はあるものの
頭の方はちゃんとしていて
何でも出来るって言ったら、通所できなくなっちゃうんだよね。
って、認定のことを理解していたのに、
いざ、認定の人が来たら
身体の不調は訴えるものの
二階から降りられなくなって私を呼んだことも
両手がふさがっていたからだと
自己弁護
耳が聴こえないのも
つい最近補聴器を変えたから大丈夫だと
昔は地獄耳のヒデさんと言われたなんて言い張る。

その上
母と同居していないことを自己弁護するように
うちの家内は家計簿がつけられないし、
料理も出来ない、家事がなにもできないので施設にお世話になっている
そんなことでGH入れてくれる訳ないでしょと言う
グチのようなことを延々と認定する人に訴える

思えば母は家計簿を一円も狂わせずに記入していた。
食べた料理とか、軽い日記のようなものも記入していた。
あまりに完璧すぎるので心配するくらいだった。
料理も
出掛ける時はちゃんと用意して出かけた。
ご近所にもおすそ分けを持って行ったらしく
私が手伝いに来るようになってご近所に挨拶しに行くと
お母さまの方が具合が悪いの?
お料理上手だったけれど、もう作れないの?
と心配された。
そう、手伝いに行き始めた頃は
どちらがボケているのかわからなくてどちらか見極めるのが大変だった。
何しろ
父は耳が遠いくせに補聴器もせずに怒鳴り散らしていた。
聴こえないからご近所とのトラブルも多く
あんしんすこやかセンタ―から何度も訪問が入っていたらしいが、
全て父が母に追い返すように行っていたみたいだ。

私たちもすべての文句は母から来るし、母は弁舌がたつ方なので
親戚との調整も大変だった。

父は料理はしないくせに
母が作る料理をあちこち食べ散らかして
自分が食べ終わると混ぜてしまう。

母も今の私のように、家族に料理を提供してから食べるので
何を食べていたのだろうか。

そのうちに食事で足りない分を自分の部屋に隠すようになった。

料理が出来ないようになると、少人数だから
買って来たものの方が安くつくわ
なんて言って、外のお惣菜を買って来て、ご飯とみそ汁くらいでごまかして
いたのだろう。
思い出すと
息子たち夫婦が孫を連れてやってくるとなった時に
買い物に行く時間がないから
出来たものを買って来てと言われて
あわててお寿司とかおかずとか買って行ったことがあった。

そうやってごまかしても面目を保っていた母を
父はどうして早く解ってやらなかったのだろう。

父は無茶をする人で
いつ死んでもおかしくないくらい病院のお世話になっている
病気だけでなく、駅のホームから落ちたり、自転車にぶつかったり
食べ過ぎ、飲みすぎでも病院のお世話になっている。

いつも母のおかげで生き延びて来たのに……
ICUの待合室、ERの待合室、
どれだけ精神的苦痛を受けたか
しかも兄弟の長女である母は、兄弟のそういう時にも
駆けつけている。

そして父が心不全で倒れた時に
友達との唯一のつながりである水泳もやめてしまった。
小さい子どもたちのコーチまで出来るようになっていたのに。

ただただ、父の回復の為だけに尽くしていて、
半年以上も、友達からそろそろどう?と
言う電話があったのに、断っていた。

水泳をやっていた時の母は、80を超えていても
余分な肉がなくてウエストがくびれていた。
今やちょっと歩いても座りたがるのとは大違いだ。

本当に若く見えて、年を10歳サバをよんでも誰も疑わなかった。

今から思うとなのだが、
そんな美人で、シャレの効いたジョークを言う母は
鼻持ちならないだけで
眼の上のタンコブでしかなかった。

父のことは母を通してしか知らない。
会話も続かなかったし、こっちの言うことは何も聞かず
自分の世界に入っていた。
今でも
洗濯物さえさせたくないらしいし、何も触らせたくないようで、
外回りの用事ばかり言いつけられる。

父と会話をするためにニュースを目にするようにして、
俳句なんかもやろうかとトライするものの、忙しくて
凡作しか出来ない。

母がGHに入るまでは
母に苦労をかけた罪滅ぼしをしなければと言っていたのは
何だったのだろうか。